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20110821

ある程度の分量の文章を短くする時



作家・平野啓一郎さんのツイートで、
文章書くときに
とっても参考になるというか、
言われてみればそんな気がすると感じるツイートがあったら、
ブログに残しておこうと思う。

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ある程度の分量の文章を短くする時、
全体のバランスを維持したまま、
まんべんなく削っていくと、
必ず痩せた文章になる。

重要な個所は多少増やすくらいにして、
その分、要らない部分を思いきって削ると、
メリハリがついて、
文章の肌艶が失われない。

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“文章の肌艶”って色っぽいなぁ

評論よりも三流料理のほうが意味がある





「作品は、私たちが論じなければただのモノです」

ちょっと言い回しは違うかもしれないけれど、
西洋美術史(主にゴシック)の教授がこう言ってたのをたまに思い出す。
ほんとたまーにだけどね。

(ちなみに、大学で教授から聞いた印象的な言葉ナンバー1は、
「君たちはこれから独立した知的主体として〜」という美学教授のお言葉)

初めてこの言葉を聞いたときは
しっくりこなくて、
「へぇー、芸術学科ってなにやってんの?」状態だったわけで。

そうやって筆が進まず、
レポートも億劫で将来どうしようかなとか
考えていた学生時代だったわけで。

いまだにモヤっとするところではあるんだけど、
そんな時に立ち返る言葉がこれ。

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「辛口な評論は書くのも読むのも楽しいし、商売になる。
だが、評論家には苦々しい真実がつきまとう。
たとえば評論家にこき下ろされ、
三流品と呼ばれたとしても料理自体のほうが
評論より意味があるのだ。」
(イーゴ『レミーのおいしい』)

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いわゆるファイン・アートではなくて料理だから、
余計にこのセリフがしっくりくる。

だからといって辛辣な評論が一概に悪いわけではなくて、
手を動かして作品を作る人と、
その作品について文章を書く人が
お互いに成長しあえる関係になって、
その過程で多くの人にその作品や作者のことを
知ってもらって応援してもらえたらいいなと
思った次第です。

20110814

灯籠流し@浅草





浅草の灯籠流し。隅田川の両岸から灯籠を流していたのだけれど、対岸から流れている灯籠のほうがライティングに邪魔されていなくて、きれいに見えたなぁ。川の上を灯りが漂っているような。

そういえば灯籠流しってどんな歴史があるんだろうと思って調べてみたら、wikipediaの「世界の主な灯籠流し」の項目に、なんとインドのプージャが記されているではないですか。
これですね↓




たしか2005年くらいにインドのバナーラシで撮影した写真。

wikiの説明によれば、「ワーラーナシー(バラナシ)など河岸の聖地ではPuja(プージャー、サンスクリット語の供養より)という灯篭流しが毎晩行われる。木の葉や花で作った小船に、ろうそく、花を入れてガンジス川に流す。」とのことです。

バラーナシに到着した初日はわいわいして楽しかったんだけど、日常の一風景と化してしまってからは、夜遅くまで楽器がんがん鳴らしながら灯籠流しているものだから、やかましくて眠れなかったなぁ。


灯籠で言うと、もはや流れてないけど、タイのコンファイはみたいなぁ。
Loy Krathong ( Yi Peng ) Festival lanterns called "khom fai"



20110812

愛するのも怒るのも同じ距離




ダチョウ倶楽部のコントで、喧嘩腰で2人が睨み合いながら近づき、キスをするというものがある(YouTubeで動画見つからなかった)。なんとなく面白いなぁと思っていたのだけど、なんで面白いのかわからなかったから、人類学の視点で考察してみた。

「Personal Space(パーソナルスペース)」という心理学用語がある。人類学者エドワード・ホールによると距離は以下の4つに分類できるそう。
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1・密接距離(intimate distance) :0cm~45cm・身体に容易に触れることが出来る距離
・家族、恋人など、ごく親しい人がこの距離にいることは許されるが、それ以外の人がこの距離に近づくと不快感を伴う

2・固体距離(personal distance) :45cm~120cm
・二人が共に手を伸ばせば相手に届く距離
・友人同士の個人的な会話では、この程度の距離がとられる

3・社会距離(social distance) :120cm~350cm
・身体に触れることは出来ない距離
・あらたまった場や業務上上司と接するときにとられる距離

4・公衆距離(public distance) :350cm以上
・講演会や公式な場での対面のときにとられる距離
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一番近い距離にあるのが、「最も親しい2人」か「負の感情を持つ2人」。ダチョウ倶楽部の喧嘩キスコントは、一瞬でこの「マイナスな関係」が「プラスの関係」になるのがおもしろいのかなぁ。

それにしても、「どうぞどうぞ」といい、ダチョウ倶楽部は人を巻き込むコントが多いですね。

20100505

フセイン・チャラヤン- ファッションにはじまり、そしてファッションへ戻る旅

 
東京都現代美術館へ。

Hussein Chalayan from fashon and back
フセイン・チャラヤン- ファッションにはじまり、そしてファッションへ戻る旅


チャラヤンの表現は、従来のファッションという枠にはとどまらず、アート、建築、デザイン、哲学、人類学、科学といった複数の領域を横断して展開します。その根底にはあるのは、私たちを取り巻く環境への批評的眼差しであり、とりわけ、テクノロジーや移動、文化的環境によって、身体およびアイデンティティがどのように変容するのかを服を通して探究してきました。こうしたテーマは、南北に分裂したキプロスの国境地帯で生まれ育った彼にとって、きわめて現実的な問題だったといえます。また、グローバル化時代に生きるわたしたちが共有する今日的な問題ともいえるでしょう。分断されてしまった土地に住む恋人に、自分が着た紙のドレスに手紙を書き、送れるようにしたエアメール・ドレス、バーチャルとリアルな肉体の狭間でゆれる私たちのリアリティを反映した映像が移ろうLEDドレスなど、それは今日的な問題を反映しながらロマンティックな想像力の輝きに満ちています。



美術館の展示で映像作品が多いと、得てして眠くなって首がっくんてなりがちだけど、
全く首落ちなかった。

例えば、このコレクション。

Hussein Chalayan Autumn Winter 2000
“Afterwords”


《アフター・ワーズ》は難民の苦境、そして戦時中に突然わが家を強制的に去らねばならない恐怖から着想を得たコレクションである。チャラヤンは、自身の家族を含むトルコ系キプロス人が、1974年国が南北に分裂する以前に、キプロスで民族浄化にさらされた過程を考察したことをきっかけに本作品を制作した。このコレクションは、そうした苦難に直面して家を離れる際に、所有物を隠そうとするのか、あるいはいっしょに持ち去りたいと切望するのか、その心理を探ったものである。リビングにはモダンな様式の椅子と円形のコーヒーテーブルが置かれ、そこでは服が椅子のカバーに、スーツケースが椅子に、そしてスカートがテーブルにそれぞれ姿を変える。


言葉で説明するとありきたりな発想に思えるけれど、作品の静的な部分とモデルの無表情が手伝って、チャラヤンが表現したかったであろうことが、すっと伝わってくる。

この作品の次の次にあった『Absent Presence(不在の存在)』も非常によかった。
たぶん今年観た映像作品のなかでベスト。

作品の説明はこんな感じ。
この短篇映像作品は、テロリズム問題にまつわる不安感情と被害妄想を扱ったもので、入国管理の“厳格化”政策が導入されたことに起因する、外国人に対する疑念に着想を得ている。チャラヤンは、制度が将来どのように個人を尋問することになり得るのかというシナリオを描いた。ティルダ・スウィントン演じる生物学者が非英国人の女性たちに服を寄付するよう促し、その服から、彼らのDNA配列を調べるために細胞を検出する実験を行う。一連のアニメーションによって、寄付をした女性たちがどのような外見なのかが表現される。このデータは、匿名の服の提供者と実際に面接することによって、分析結果の正確性が検証されることになる。




総じてチャラヤンの作品は、純粋に服のデザインだけを観てもいいなぁと思うけれど、そのデザインが映像という建築的なストーリーによって意味を担保されていて、いわゆるファンタジーのような物語性とは別の“物語性”が感じられた。こうゆう観方がいいのかわからないけれど、ファッションのプレゼンテーションとして極めて優れてます。感服。

頑張って一言で表現するなら、
「ファッションという夢を見た論理」と言ったところでしょうか。


洋服が好きな方、それからファッションでお仕事してる方におすすめです。


併せてこちらのインタビューを読んでも面白いかも。
『ファッションとアートのボーダー上を歩くには』
フセイン・チャラヤン インタビューby 林央子
http://www.veritacafe.com/art/2010/04/1731/


フセイン・チャラヤン-ファッションにはじまり、そしてファッションへ戻る旅

会期:2010年4月3日(土)〜6月20日(日)
休館日:月曜日(ただし5月3日は開館、5月6日は休館)
開館時間:10:00〜18:00(入場は閉館の30分前まで)
会場:東京都現代美術館 企画展示室 B2F
観覧料:一般 ¥1,200

20100323

校長先生のお話

最近Twitterをわりと日常的に使うようになったり、
今日、NHKの特番「激震 マスメディア ~テレビ・新聞の未来~」を観たこともあって、
ざっくりというと「情報」について思いを巡らす時間が増えた。

「情報」についてはたくさんの切り口があると思うんだけど、
ここで触れてみたいのは、
「情報の発信者と受信者の間に人が入ること」について。

例えば今日のNHKの特番でも、合間合間に司会者の方が、
「ではTwitterで寄せられている意見を一部取り上げてみましょう」と言って、
いくつか読んで紹介していたけれど、リアルタイムで特番のハッシュタグを追っていた自分としては、
「その意見より、こっちの意見の方が的確でしょ?絶対放送できないけど笑」みたいな具合で、
要するにその仲介は必要ないものだった(NHKのスタンスを知る上で、どのコメントを取り上げたかは良い手がかりになるかもしれないし、番組として成立させるために必要だったとは思うけど)。

でも、情報の仲介者が必ずしも必要じゃないとは限らない。
というのは、仲介者がいることで、人は「まじめになる」から。

思い出したのは、小学3年生ぐらいの頃の朝礼の自分。
朝礼での力の抜きどころ(ふざけどころ)も分かってきて、一番ふざけたくなるのが、校長先生の話。
内容がつまらないのは毎度のことだけど、そこですぐに遊びだすのが子供のお茶目なところ。
校長先生の「え~」の回数を数えたり、「例えば~」の回数を数えたり、内容とは関係のない表層をひたすらすくい続けていた。
この感覚でいまだに残ってる気がすんだよな。
眼科の待合室で国会中継観てても、内容よりも瑣末なことばっか気になるし。TVで垂れ流しの情報みてるより、ウェブだったり、新聞だったりで読んでいるときのほうが、ちゃんと内容を理解しようとしている気がする。

とまぁぐだぐだ書きましたが、ほおっておくとふざけだしてしまうので、
しっかりした大人になるまでは情報を仲介してくれて大丈夫ですよ、ってことです。
その仲介が偏ってるかどうかは、他のメディアと比較して検討しますから。

それにしても校長先生の話、小・中・高でひとつも覚えてない。

20100114

1歩め、2歩め


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だれにだって、1歩めなら、かならず登れる。
で、1歩めを登れたら、
きっと2歩めを踏み出せるでしょう。

だから、やろうと決断したら、
途中でやめたことは、いちどもないんです。

ぜんぶやるんです、かならず。
--------------

原丈人さんの言葉。

ついつい、どうやったら一気に木の上に登れるかなぁって考えてしまったりするけれど、
1歩め、そして2歩め。
そんな気持ちを忘れないようにしないと。

20100103

浅草寺で初詣

 

浅草寺で初詣、そしておみくじで大吉。

「凶が出ることで名高い浅草寺で大吉を引けたってことは、今年はほんとうに大吉なんだ」と思い込む。

20100102

バーバパパのことを、

バーバパパのぬいぐるみを見て、
「あ、おばけ」と言う小さな男の子と、
それに対して、
「ちがうよ。バーバパパ。」と言う優しそうなお父さん。

バーバパパの生みの親は、
どっちの反応が嬉しいんだろ。

20091231

2010年もっと。

 


「この世でいちばん哀しいのは、一度も語られることのなかった物語たちと一度として奏でられることのなかった音楽たちだ」

吉田篤弘『フィンガーボウルの話のつづき』に出てくる、
ゴンベン先生の言葉。

フジファブリックの志村正彦さんが亡くなった今、
この“哀しさ”をしみじみと感じる。

2010年も、もっとたくさん読んで、たくさん見て、たくさん聴こう。

2009年、ありがとうございました。

20091220

仕事論

 


十分高度な暇つぶしは、仕事と区別がつかない。

のであれば、それを仕事と認めてもらうためには、あなたの暇つぶしは十分高度でなければならないのだ。

何をもって十分高度とみなすか。

客としてのあなたが、今そこにいるあなた自身に仕事を頼むかどうかではないのか。

これは、就職活動におけるたった一つの冴えた質問でもある。

小飼弾ブログ「404 Blog Not Found」

『なぜ「「暇つぶし」のために働いていると言わないのが「普通」なのか』より抜粋

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なるほどねー

ま、「仕事とは・・・」とか言い出す前に、
もっとやるべきことやろ。

ひとり暮らし計画

 
ひとり暮らし始めたら、
たぶんこんなことになるんだろうなー


来年は今年より忙しくなりそうなので、
ちょっと本格的に会社近くへのひとり暮らしを考え始めた今日この頃。

AVU君シャツ

 
お友達のAVU君が、
おまかせオーダーメイドで、
シャツをパターンから引いて作ってくれました。



「コバヤシ君はかわいいシャツ着てるから合うかと思って」と。

AVU君らしい生地使いが、とてもすてきです。

黄色い缶バッジでも襟につけようかなー

20091212

どんだけー

  
思わず、「どんだけー」と言ってしまいました笑

「インターンとしてソニー・エリクソンに入社したあなた。配属先の上司(先輩)を口説き落とすラブメールを書け!」
http://www.campuspark.net/s002/lovemail.html?utm_source=mail&utm_medium=091208
CampusPark


なんか文章がよくあるエロ系迷惑メールの雰囲気に似てる気がしなくもない。
逆に言えば、迷惑メールの文章を考えているのは、大学生とかなのかもしれない。

とか推測してみる。

誰か知ってたら、こっそり教えてください。

20091206

peace is the way.

セバスチャン・サルガド写真展「アフリカ 〜生きとし生けるものの未来へ〜」
@東京都写真美術館へ行ってきました。

この展覧会は、かつて経済学を専門としていたセバスチャン・サルガドの視点を通して「見捨てられた大陸」と呼ばれるアフリカの現状に迫るものです。サルガドが初めてアフリカを取材した1970年代から今日に至るまで、世界各国でアフリカの飢餓、砂漠化を救うべくキャンペーンが組まれ、さまざまな計画が実行されてきました。にもかかわらずその状況は一進一退を繰り返しています。度重なる紛争で、さらに悪化する環境を食い止める手段すら見つからない地域がある一方で、経済的発達が見込める都市では一時期、爆発的に経済が発展し、アフリカが保有する資源にも注目が集まっています。格差が広がるばかりのアフリカの現状をどのように理解し、関わっていくかが国際的に問われているのです。
作家は現在、自ら「最後の大プロジェクト」と語るシリーズ「GENESIS(ジェネシス/起源)」に取り組んでいます。このプロジェクトは世界各地、前人未踏の地までも取材し、作品発表だけでなく、教育や植林活動等を通して地球の恵みと人類の歴史を見直そうとするものです。本展覧会では、「ジェネシス」シリーズの最新作も含めた作品群100点を展示します。



白黒のコントラストが美しく、
粒子の粗さがアフリカの匂いを伝える。

アフリカの人々や大地が写された写真からは、
音だったり匂いだったりが聞こえてくるようで、
どきどきしてしまいました。

虐殺後の村の写真もあったりして、
思わず目をそむけたくなったけど、
過去の過ちとして受け止める以外に、道はないのかもしれません。

"There is no way to peace — peace is the way."


映画『ホテル・ルワンダ』を見直したくなりました。

20091204

Afghanistan Speech at West Point

オバマ米大統領は1日、米ニューヨーク州ウエストポイントの陸軍士官学校で演説し、新しいアフガニスタン戦略を発表した。その中で、アフガニスタンに3万人の増派を行い、2011年7月から撤退を開始する方針を示した。

要は、人員をがっと増やして、治安を安定させ、なるべく今の状況を打開するという戦略。

国連事務総長が追加増派を歓迎する声明を出したりと、
反応は様々ですが、やっぱりオバマの演説には言葉の後ろに気持ちが感じられて、素直に聴けますね。

以下、演説を抜粋。
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As President, I have signed a letter of condolence to the family of each American who gives their life in these wars.

私は合衆国大統領として、戦争で命を落とした兵士たちひとりひとりの家族に宛てたお悔やみの手紙にサインしてきました。

I have read the letters from the parents and spouses of those who deployed.

私は、召集された兵士の両親や配偶者から送られてきた手紙を読んでいます。

I have visited our courageous wounded warriors at Walter Reed.

私は、ウォルター・リード陸軍病院に収容された、勇気ある負傷兵たちを見舞ってきました。

I have travelled to Dover to meet the flag-draped caskets of 18 Americans returning home to their final resting place.

私は、ドーバー空軍基地に、国旗にくるまれ帰還した、アメリカ人兵士18人の棺を、出迎えました。

I see firsthand the terrible wages of war.

私は、戦争の悲惨な代償を、目の当たりにしてきました。

If I did not think that the security of the United States and the safety of the American people were at stake in Afghanistan, I would gladly order every single one of our troops home tomorrow.

私が、アフガニスタン情勢が及ぼす、アメリカという国家と国民の安全への重大な影響を考えなくてよいのなら、明日、すべての兵士の帰還命令をよろこんで発するでしょう。

So no - I do not make this decision lightly.

ですから、今回の決断を、私は、決して軽々しく行ったのではありません。



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決断は間違うことがある。いくら考えたとしても。
ただ、この決断がなるべく間違いでないことを祈りたい。

20091121

健全




「賢くあろうとせず、
 健全であろうとしなければならない」

ピーター・ドラッカーの言葉。

ご縁のある方に対して、
自分の好奇心に対して、
健全でありたいと思います。

20091115

個人的には



ある気象予報士さんのtwitterを読んでいたら、
こんな素敵なやりとり。

「降水確率30%。傘の必要はないかな?」
「立場的にはいらないと言えないが、個人的にはいらないと言いたい」



今日は傘の必要はなさそうですね。
立場的にも、個人的にも。

20091114

「弱い」でもなく、「強い」でもなく。




「弱い」でもなく、「強い」でもなく。
もっとほかの言葉で言い表せたなら。

永井均さんの『道徳は復讐である』を読みながら、
そんなことを思いました。

ひさしぶりの徹夜明けの帰りに電車で読んでいたから、
眠たかったはずなんだけど、「いい文章だな」と思ったので、
ぜひ記録にも残しておければと。

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道徳にすがって生きざるをえない局面で発揮されるキリスト教的パワーというものを、現代的な場面で設定するなら、いじめられっ子の道徳的行動を想定するのが一番だと思います。いじめられっ子が勝てるゲームは道徳ゲーム、それもさっき言った意味で(※1)内面化され、神秘化された道徳という価値のゲームです。

彼あるいは彼女は、クラスの誰にも気づかれない状況で、いじめの首謀者やクラス全員のために献身的に尽くすとか、何かそういうことをするわけです。つまり自分が勝てるゲームを捏造して、その中で敵に復讐する。このやり方も空想の中だけでなく現実に勝利をおさめるケースがないとはいえない。

つまり、キリスト教的ルサンチマンは、反感や憎悪をそのまま愛と同情にひっくり返すことによって復讐を行なう独特の装置なのです。この装置を使うと、憎むべき敵はそのまま「可哀そうな」人に転化します。だから、彼らの「愛」の本質は、実は「軽蔑」なのです。

「敵を愛する」という言葉はそもそも矛盾表現ですね。「敵とは戦うべきだ」と考えないなら、なぜもっとすっきり「敵などというものは存在しない」とは言えないのか。それは、この表現が二つの価値の間を媒介することによる復讐を表現しているからではないでしょうか?

「ルカ伝」に「あなたがたを憎む者に親切を尽くし、誹謗する者に対して神の祝福を求め、後悔する者のために祈れ。あなたの頬を打つ者にはもう一方の頬も差し出し、上着を奪う者には下着をも拒むな」という言葉がありますね。問題は、なぜもう一方の頬も差し出さずにはいられなくなってしまうのか、なぜ親切を尽くしたり、神の祝福を求めたり、祈ったりせざるをえなくなってしまうのか、というところにあります。

反撃する力がないなら、なぜせめて自分を憎む者や誹謗する者に対して何もしない程度には強くなれないのか。人間はそんなこともできないほど弱いのだ。 
—僕はこの箇所からそういうメッセージを読み取ります。つまり僕は、キリスト教徒のようにこの倫理を称揚するつもりはもちろんないですけど、ニーチェのように非難するつもりもありません。むしろここに、人間の弱さと道徳の悲しさを読むべきだと思うのです。


永井均『道徳は復讐である ニーチェのルサンチマンの哲学』p25-27


※1
「さっき言った意味で」というのは、引用した文章の少し前に書かれている、以下の文章のことだと思われる。

奴隷道徳にすがって生きざるをえないという局面がどんな人の人生にも起こりえることであり、そのとき人は道徳を、単にそれが道徳であるという理由で尊敬せざるをえなくなる。
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ちょっと長かったけど、いつか時間が経ってこの本が手元からなくなっても、この文章は覚えておきたいと思って、引用しました。

この箇所を読んでいて、ふと思い出したのは、
前のエントリーで紹介した読売新聞の車内広告の一文。

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心ない者たちのうちにも
自分と同じ美しさを探しつつ、
君はひとり、
大人になればいい。

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最初この広告を読んだとき、「『君はひとり、大人になればいい。 』って言われても、実際いじめられている子どもはそんな風に思えないのでは」と感じました。

でも、永井均さんの本を読み進めていくうちに、『君はひとり、大人になればいい。 』という姿勢は、永井さんの言うところの「人間の弱さと道徳の悲しさ」を程よく受け止めた考え方なのではないかなと思えてきました。

自分の子どもには、たぶん「やられたらやりかえしてこい!」とか言う気がするんだけど、心のなかでは、『君はひとり、大人になればいい。 』と思うんだろうな、と。

「弱い」でもなく、「強い」でもなく。
この感覚を何に例えよう。


というわけで、『君はひとり、大人になればいい。 』の広告が読売新聞の売上にどれだけ貢献するのかは分かりませんが、こんなことを考えるいいキッカケになってくれました。

このブログは、“connecting dots”という名前に込めた通り、ちいさな点を結びつけることで浮かび上がる何かを発見ができたらいいなと、勝手に思っています。


最後まで読んでくれてありがと。


道徳は復讐である―ニーチェのルサンチマンの哲学 (河出文庫)

20091112

男性諸君



男同士で語れる夢が、本当の夢だと思う。

最近、切にそう思う。