20100323

校長先生のお話

最近Twitterをわりと日常的に使うようになったり、
今日、NHKの特番「激震 マスメディア ~テレビ・新聞の未来~」を観たこともあって、
ざっくりというと「情報」について思いを巡らす時間が増えた。

「情報」についてはたくさんの切り口があると思うんだけど、
ここで触れてみたいのは、
「情報の発信者と受信者の間に人が入ること」について。

例えば今日のNHKの特番でも、合間合間に司会者の方が、
「ではTwitterで寄せられている意見を一部取り上げてみましょう」と言って、
いくつか読んで紹介していたけれど、リアルタイムで特番のハッシュタグを追っていた自分としては、
「その意見より、こっちの意見の方が的確でしょ?絶対放送できないけど笑」みたいな具合で、
要するにその仲介は必要ないものだった(NHKのスタンスを知る上で、どのコメントを取り上げたかは良い手がかりになるかもしれないし、番組として成立させるために必要だったとは思うけど)。

でも、情報の仲介者が必ずしも必要じゃないとは限らない。
というのは、仲介者がいることで、人は「まじめになる」から。

思い出したのは、小学3年生ぐらいの頃の朝礼の自分。
朝礼での力の抜きどころ(ふざけどころ)も分かってきて、一番ふざけたくなるのが、校長先生の話。
内容がつまらないのは毎度のことだけど、そこですぐに遊びだすのが子供のお茶目なところ。
校長先生の「え~」の回数を数えたり、「例えば~」の回数を数えたり、内容とは関係のない表層をひたすらすくい続けていた。
この感覚でいまだに残ってる気がすんだよな。
眼科の待合室で国会中継観てても、内容よりも瑣末なことばっか気になるし。TVで垂れ流しの情報みてるより、ウェブだったり、新聞だったりで読んでいるときのほうが、ちゃんと内容を理解しようとしている気がする。

とまぁぐだぐだ書きましたが、ほおっておくとふざけだしてしまうので、
しっかりした大人になるまでは情報を仲介してくれて大丈夫ですよ、ってことです。
その仲介が偏ってるかどうかは、他のメディアと比較して検討しますから。

それにしても校長先生の話、小・中・高でひとつも覚えてない。

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