20091114
「弱い」でもなく、「強い」でもなく。
「弱い」でもなく、「強い」でもなく。
もっとほかの言葉で言い表せたなら。
永井均さんの『道徳は復讐である』を読みながら、
そんなことを思いました。
ひさしぶりの徹夜明けの帰りに電車で読んでいたから、
眠たかったはずなんだけど、「いい文章だな」と思ったので、
ぜひ記録にも残しておければと。
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道徳にすがって生きざるをえない局面で発揮されるキリスト教的パワーというものを、現代的な場面で設定するなら、いじめられっ子の道徳的行動を想定するのが一番だと思います。いじめられっ子が勝てるゲームは道徳ゲーム、それもさっき言った意味で(※1)内面化され、神秘化された道徳という価値のゲームです。
彼あるいは彼女は、クラスの誰にも気づかれない状況で、いじめの首謀者やクラス全員のために献身的に尽くすとか、何かそういうことをするわけです。つまり自分が勝てるゲームを捏造して、その中で敵に復讐する。このやり方も空想の中だけでなく現実に勝利をおさめるケースがないとはいえない。
つまり、キリスト教的ルサンチマンは、反感や憎悪をそのまま愛と同情にひっくり返すことによって復讐を行なう独特の装置なのです。この装置を使うと、憎むべき敵はそのまま「可哀そうな」人に転化します。だから、彼らの「愛」の本質は、実は「軽蔑」なのです。
「敵を愛する」という言葉はそもそも矛盾表現ですね。「敵とは戦うべきだ」と考えないなら、なぜもっとすっきり「敵などというものは存在しない」とは言えないのか。それは、この表現が二つの価値の間を媒介することによる復讐を表現しているからではないでしょうか?
「ルカ伝」に「あなたがたを憎む者に親切を尽くし、誹謗する者に対して神の祝福を求め、後悔する者のために祈れ。あなたの頬を打つ者にはもう一方の頬も差し出し、上着を奪う者には下着をも拒むな」という言葉がありますね。問題は、なぜもう一方の頬も差し出さずにはいられなくなってしまうのか、なぜ親切を尽くしたり、神の祝福を求めたり、祈ったりせざるをえなくなってしまうのか、というところにあります。
反撃する力がないなら、なぜせめて自分を憎む者や誹謗する者に対して何もしない程度には強くなれないのか。人間はそんなこともできないほど弱いのだ。
—僕はこの箇所からそういうメッセージを読み取ります。つまり僕は、キリスト教徒のようにこの倫理を称揚するつもりはもちろんないですけど、ニーチェのように非難するつもりもありません。むしろここに、人間の弱さと道徳の悲しさを読むべきだと思うのです。
永井均『道徳は復讐である ニーチェのルサンチマンの哲学』p25-27
※1
「さっき言った意味で」というのは、引用した文章の少し前に書かれている、以下の文章のことだと思われる。
奴隷道徳にすがって生きざるをえないという局面がどんな人の人生にも起こりえることであり、そのとき人は道徳を、単にそれが道徳であるという理由で尊敬せざるをえなくなる。
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ちょっと長かったけど、いつか時間が経ってこの本が手元からなくなっても、この文章は覚えておきたいと思って、引用しました。
この箇所を読んでいて、ふと思い出したのは、
前のエントリーで紹介した読売新聞の車内広告の一文。
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心ない者たちのうちにも
自分と同じ美しさを探しつつ、
君はひとり、
大人になればいい。
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最初この広告を読んだとき、「『君はひとり、大人になればいい。 』って言われても、実際いじめられている子どもはそんな風に思えないのでは」と感じました。
でも、永井均さんの本を読み進めていくうちに、『君はひとり、大人になればいい。 』という姿勢は、永井さんの言うところの「人間の弱さと道徳の悲しさ」を程よく受け止めた考え方なのではないかなと思えてきました。
自分の子どもには、たぶん「やられたらやりかえしてこい!」とか言う気がするんだけど、心のなかでは、『君はひとり、大人になればいい。 』と思うんだろうな、と。
「弱い」でもなく、「強い」でもなく。
この感覚を何に例えよう。
というわけで、『君はひとり、大人になればいい。 』の広告が読売新聞の売上にどれだけ貢献するのかは分かりませんが、こんなことを考えるいいキッカケになってくれました。
このブログは、“connecting dots”という名前に込めた通り、ちいさな点を結びつけることで浮かび上がる何かを発見ができたらいいなと、勝手に思っています。
最後まで読んでくれてありがと。
道徳は復讐である―ニーチェのルサンチマンの哲学 (河出文庫)
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