20091101

「好き」の作法

すがすがしい。

文章を読んでいて、そう感じることがある。

「この人には、世界はどう見えているんだろう」と想いにふけってしまいたくなるような、
すきっとおった文章。


この前紹介した、松浦弥太郎『最低で最高の本屋』は、
そんな本だった。

それから勢いで、この著者の随筆集『くちぶえサンドイッチ』を
読んでみた。

感想から言うと、
ちょっと青臭すぎた。

けれど、最後に寄せてある、角田光代の解説が良かった。


角田光代は、「世界がどんなに光に満ちた場所かを」と題する解説で、松浦弥太郎の姿勢を「すがすがしい肯定」と評している。

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この『くちぶえのサンドイッチ』が初夏の風のように心地よく、かつ美しい瞬間がちりばめられているのは、作者が自分の「好き」を知り抜いているからだと思う。単に、なんとなくいいと思うもの、なんとなく気持ちのいいもの、ではなく、はっきりと「好き」なものしか見ない、触れない、という、強靭な意志がここにはある。「好き」を知るには、途方もない時間がかかる場合もあるだろうし、また「好き」と決めたばっかりに背負いこむ苦労や困難も、きっとあるのだろう。でもこの作者は、そんなことは書かない。「好き」ということがどのくらいたいへんなことなのか、そのうしろにはどれほどの「嫌い」があるのか、書かない。そんなものは作者にとってきっととるに足らないからだ。「好き」の強烈さに比べたら、まったくちっちゃなことがらだからだ。

多くの人は、何かをいいと言うときに、べつのものの悪いところを言う。この赤い色がいいと説明するときに、こっちの赤だと派手だし、こっちの赤だとくすんで見える、だから私はこの赤がいいのだと説明する。好き、を説明するのは、嫌い、を説明するより難しいからだ。好きなもののことを話しているようでいて、気がつけば嫌いなものについて話していることが、私たちには往々にしてある。でも、作者はそうはしない。この本にあるのは、「嫌い」をまったく付随しない純粋な「好き」だ。だから、この本のなかに否定形はまったくないといっていい。あるのはすがすがしい肯定。それはつまるところ、世界への肯定である。

本書 p.327-328

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この文章読んでて思い出したのは、
箭内道彦が言っていた話。

「恋人どうしで、「私のどこが好きー?」とか聞くじゃないですか?ぼくあの質問こまっちゃうんですよ。だって、例えば、「やさしいところが好き」って答えたら、「じゃあ、やさしくなかったら好きじゃないの?」ってなるじゃないですか。好きは好きでいいんですよ」


箭内道彦の文章だったり話も、すがすがしくて好きなんだけど、
なんとなく2人には、共通する感覚がある気がする。

「好き」の作法というか。

ちょと青臭くて照れくさい内容だけど、
好きなことに対する素直な気持ちを思い出させてくれる本でした。
(ちなみにぼくの場合、読みながら大学1、2年のころを思い出しました)

寝る前、頭のなかに幸せをつめこみたいときにどうぞ。



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